金剛寺一切経の系譜論的考察
落合俊典Ochiai Toshinori
日本國佛教學大學院大學教授
日本の奈良時代(8世紀)から鎌倉時代(13世紀)にかけて書写された古写経は文化財的調査が進展した割には文献学的価値の重要性について論じられることは少なかった。しかし、1990年に平安時代後期(12世紀)に書写された七寺一切経中から中国南北朝時代に成立したと想定される古逸経典が発見されたことを契機に見直し研究が進んできた。
七寺古逸経典研究叢書全6巻は一切経(大蔵経)に入蔵されていない疑経類の経典が中心となって編纂されたものだが、その後調査が行われた金剛寺一切経からは、古逸の経典とされていた安世高訳『十二門経』金刚经是哪个教派的著作に始まり、現行本と異なるテキストが相当数発見されるに至った。中でも特筆すべきものは『首楞厳経』や『賢愚経』であろう。前者は林敏氏の研究によれば現行本に先行する経典であり、その後改訂が行われたと論じている。また後者は三宅徹
誠氏の研究に依れば現行本(高麗・宋版等)と巻別の品次を大幅に異にしていることが判明し、それらは唐代長安仏教のテキストを忠実に反映していると考えられている。
本稿では金剛寺一切経がどの系統の一切経を底本として書写されたのか考察してみたい。これは畢竟、日本の古写経が東アジア仏教の展開の中で文献学的に重要な位置にあることを論じることになるであろう。
1.金剛寺一切経の特殊性
金剛寺一切経から発見された後漢安世高訳『安般守意経』と『十二門経』はまさに驚愕すべきものである。『安般守意経』は現行本が存するが、その現行本は後人の細注が混入して区分し難い本文となったものである。これに反して金剛寺一切経本は経典本文からなる純粋の翻訳経典である。しかもその本文は現行本と相似しつつも異なる文章を有している。経録の教えるところに依ると『大安般経』と『小安般経』が存したという。金剛寺一切経本がどちらであるかは俄に判断し難いが、現行本から作為的にこの本文を作成することが出来ない構成になっており明らかに失われた安世高訳経典である。また『十二門経』は初期中国仏教における釈迦信仰の重要な典拠とされた経典である。それは『太子瑞応本
起経』に記された釈迦の悟りへの道が十二門(禅)に依るとの経証から重視されたのである。『奉法要』に引用された本文と同文が見られることからこれも安世高訳と言われた経典であることが判明する。これら古逸の経典が日本で発見されたことは実に信じがたいことである。何故ならば隋の仁寿二年(602)の『仁寿録』には闕本とされていたからである。日中仏教交流が開始されてからまだ50年足らずの時代に早中国から伝来したのであろうか。六世紀中葉の仏教公伝を信じるとしてもその当時の六朝時代で『十二門経』が隆盛していた史実はない。むしろ難解な小乗の経典として忘れ去られようとしていたのである。そのような中国でも稀な書となっていたものが日本に伝来した事実は大きい。